NY帰国

昨夜無事に帰国いたしました。発表後の質疑応答では若干ミスを犯しましたが、その後に行ったバーでの議論で多少は取り戻せたのでよしとしましょう。何にせよ、英語で自由に意見表明を行うにはまだまだ長い訓練が必要のようです。

慌ただしい日程のなか、何とか一日半ほど観光もしてきました。MoMAには閉館前の二時間ほど駆け足で行ってきました。ワイエスの「クリスティーナ」を鑑賞できたのは感激でしたね。残念ながらメトロポリタンとグッゲンハイムには行く時間をとれず。教授や同僚と一緒に回ったので個人用の買い物もほとんどできずでした。というか、そもそも東京で買えないものは不気味な色をしたお菓子とろくでもないオバマグッズくらいでしょう。

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留学した後輩とのコンタクトのためにfacebookに登録しました。すでにfacebookに参加されている方がいたら私の名前を(ローマ字で)検索してみて下さい。写真のアップが簡単なので撮影した写真の共有用に使おうと考えています。

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おくりびと

昨日は映画の日ということもあり「おくりびと」を鑑賞してきた。

http://www.okuribito.jp/

きわめて宗教的な作品である。それは、この作品が特定の宗教的な立場を反映したものだという意味ではなく、「死を意味づける」という宗教がもつ根源的機能を問い直させるものだという意味である。

人は自らの死を孤独のうちに死ななければならない。自らの死は自らが引き受けなければならず、誰かに肩代わりしてもらったり、誰かと共有したりすることは不可能だからである。この意味で、「自分の死」は社会化しえない出来事である。しかし、「他人の死」はそうではない。生き残った者たちは愛する者が死んだあともなお生き続けなければならない。「人はいつか死ぬ」というこの当たり前の命題は、しかし、「人」が具体的な家族や友人に置き換わった瞬間に当り前のものではなくなる。死は死者のものであると同時に、生き残った者たちのものでもある。死は意味づけられ、それと同時に残された者たちの生のなかに位置づけられなければならないのである。もちろん、これは容易なことではない。

納棺師とは、死に装束を纏わせ、死に化粧を施すことを通じて、死に意味を与えてゆく職業である。生き残った者たちは、葬式という儀式によって、故人の生には確かに意味があったのだという確認を行い、その死を受容してゆく最初の過程を踏み出し始める。「おくりびと」に登場する納棺師(本木雅弘山崎努)は、人の死をまさにその人の死として愛情と敬意の念をもって彩ってゆく。その作法は静謐であり、端正であり、優美である。この映画に描かれているように、そうした儀式はときに、残された者たちの心に、死者への失われた想いを取り戻させてくれる。

おくりびととは、死者を「送る」ことを通じて、その死の意味を生者に「贈る」者のことである。

論文と盆栽

前回のエントリーで言及した論文は締め切り前に無事に提出。個人的にはあと一ヶ月と一万字ほどの余裕が欲しかったが、限られた日数と字数のなかで仕事をこなしていく能力を身につけるという意味ではよい勉強になった。

ひとつの論文をひとつの論文として書き上げる際にとりわけ重要なのは、何を書くかの選択ではなく何を書かないかの選択である。問題を極限まで絞り、論ずる対象を限定したうえで、その限定された問題設定のなかで論理を明晰に練り上げてゆく。たいてい、勉強したことや思いついたことにはある種の「愛おしさ」があるため、それらをすべて盛り込みたいと考えてしまう。だが、それよりも重要なのは、論理の道筋を限定したうえで、それを可能な限り秩序立ったものとして構成してゆくことである。

この意味で、論文を書くのは盆栽づくりに似ている。あらかじめその枝がどのように成長するかを見積もった上で、成長させるべきと判断した枝だけを残して他の枝は刈り取ってゆく。そして、残した枝は剪定を繰り返しながら丁寧に成形してゆく。枝を切ることは思いを切ることである。そして、思い切りのよい作品ほど美しい。