おくりびと

昨日は映画の日ということもあり「おくりびと」を鑑賞してきた。

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きわめて宗教的な作品である。それは、この作品が特定の宗教的な立場を反映したものだという意味ではなく、「死を意味づける」という宗教がもつ根源的機能を問い直させるものだという意味である。

人は自らの死を孤独のうちに死ななければならない。自らの死は自らが引き受けなければならず、誰かに肩代わりしてもらったり、誰かと共有したりすることは不可能だからである。この意味で、「自分の死」は社会化しえない出来事である。しかし、「他人の死」はそうではない。生き残った者たちは愛する者が死んだあともなお生き続けなければならない。「人はいつか死ぬ」というこの当たり前の命題は、しかし、「人」が具体的な家族や友人に置き換わった瞬間に当り前のものではなくなる。死は死者のものであると同時に、生き残った者たちのものでもある。死は意味づけられ、それと同時に残された者たちの生のなかに位置づけられなければならないのである。もちろん、これは容易なことではない。

納棺師とは、死に装束を纏わせ、死に化粧を施すことを通じて、死に意味を与えてゆく職業である。生き残った者たちは、葬式という儀式によって、故人の生には確かに意味があったのだという確認を行い、その死を受容してゆく最初の過程を踏み出し始める。「おくりびと」に登場する納棺師(本木雅弘山崎努)は、人の死をまさにその人の死として愛情と敬意の念をもって彩ってゆく。その作法は静謐であり、端正であり、優美である。この映画に描かれているように、そうした儀式はときに、残された者たちの心に、死者への失われた想いを取り戻させてくれる。

おくりびととは、死者を「送る」ことを通じて、その死の意味を生者に「贈る」者のことである。