自己の解剖学

当日別の用事があって見逃してしまったETVの松井冬子特集。YouTubeにあがっていたので補完する。作品制作の内実深くにまで探究の手を伸ばしてあり、ドキュメントとしては悪くない出来だったと思う。未見の方は、下にURLを記載しておいたので、消される前にぜひご覧あれ。


以下、松井冬子の作品に関して少々感じていることを書いておきたい。


すぐさま気付かれるように、松井冬子の制作は「痛み」という現象をめぐって展開される。


松井冬子は、痛みを感覚の対象として捉えもしないし、痛みを対象の感覚として捉えもしない。彼女は、痛みを自己そのものの外部(対象)にも内部(作用)にも置くことなく、それを「自己そのもののモデル」として捉えている。松井冬子においては、「自己が身体感覚を通じて痛みを知る」のでも、「自己が痛みを通じて身体状態を知る」のでもなく、「身体が痛みにおいて自己を知る」のである。彼女の特異性は、この痛みをめぐる独自の美学=感性学にある。


「腑分け」という言葉が示すように、解剖はしばしば最も深い「知」の暗喩として用いられる。われわれは腹部を切り開き、臓物を取り出して、それらを分類しその相互関係を吟味することで、われわれの在り方を理解しようとしてきた。松井冬子の筆は、まさに自己自身に向けられた「メス」である。しかもそれは、死体のではなく、生体の解剖学である。その際、解剖を行う自己は目覚めていなければならず、麻酔によって眠ることを許されない。ここでは、術者が同時に被術者でなければならないのだ。それゆえ、そこには必然的に「痛み」の経験が伴う。


否。むしろ、松井冬子が試みているのは、麻酔なしの解剖において生じる痛みという激しい感性的経験そのものを、自己のかたちを浮き彫りにする特権的なモデルとして活用することなのである。それは「古傷」のように身体に染み着いた記憶を痛みにおいて覚醒させ、そのかたちを見定めようとする作業である。そこには、自己を解剖する激しい痛みに耐えながら、なおその痛みの輪郭を見定める怜悧にして苛烈な知性が要求される。それでもなお、松井冬子はそうした苦痛に満ちた作業を行わずにはいられない。なぜなら、彼女の身体は彼女自身だけのものではなく、より多くの女性たちの身体でもあり、そうした女性たちの痛みを自らの身体を媒介に解剖するよう、名も知らぬ多くの「はらから」たちによって召命されているからである。


ETV特集「痛みが美に変わる時 〜画家・松井冬子の世界〜」


Part 1

Part 2
http://www.youtube.com/watch?v=2OS0p7YXRv4

Part 3
http://www.youtube.com/watch?v=jRVMiT01kXM

Part 4
http://www.youtube.com/watch?v=0zhBjJrOkH0

Part 5
http://www.youtube.com/watch?v=pd43K03-76k

Part 6
http://www.youtube.com/watch?v=aTJN-g4a6wo